2014年[第134回卒]
2014年 (平成26年) 第134回卒 第96回 全国高等学校野球選手権 滋賀大会 出場 チーム紹介 僕達の学年は個性豊かなチームでした。その中、ぶつかることもたくさんありました。投手を中心に守備からリズムをつくるチー … Read More
2014年 (平成26年) 第134回卒 第96回 全国高等学校野球選手権 滋賀大会 出場 チーム紹介 僕達の学年は個性豊かなチームでした。その中、ぶつかることもたくさんありました。投手を中心に守備からリズムをつくるチー … Read More
2013年 (平成25年) 第133回卒 第95回 全国高等学校野球選手権 滋賀大会 出場 チーム紹介 僕達は普段の練習から選手同士お互い言葉を掛け合い高め合っていました。 池川先生からも、いい声が出ていると言われていま … Read More
2012年 (平成24年) 第132回卒 第94回 全国高等学校野球選手権 滋賀大会 出場 チーム紹介 僕達は、16人と少ない人数でしたが、少ないからこそお互いが意識を高め合い3年間練習に励みました。時にはぶつかることも … Read More
2011年 (平成23年) 第131回卒 第93回 全国高等学校野球選手権 滋賀大会 出場 チーム紹介 我々は選手26名、マネージャー1人と非常に人数の多い学年であった。1人ひとりの個性も強く、池川監督はじめ指導に当たっ … Read More
1919年 (大正8年) 第37回卒 |
第5回 全国中等学校優勝野球大会 京津大会 出場 |
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第5回大会は滋賀県から八幡商、滋賀師範、比叡山と3校が出場する。 しかし、今年も京都の厚い壁が立ちはだかり、滋賀県勢は大敗するが、八幡商が辛うじて接戦を演じた試合をす ることができた。 |
【京津大会】 | |||
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二回戦 | 対 京都一中 | 2-4 | ● |
選手 |
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1918年 (大正7年) 第36回卒 |
第4回 全国中等学校優勝野球大会 京津大会 出場 |
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第4回大会は二年ぶりの大会参加である。滋賀県からの参加チームは八幡商、滋賀師範、比叡山の3校の出場。 この大会は1次リーグで2勝したチームが、決勝トーナメントを争うという形がとられた。本校は残念ながら2試合に惨敗し決勝トーナメントへは出場できていない。滋賀県からは滋賀師範だけが進出している。 この年は、米騒動の影響で地区大会は開催されたが、全国大会が中止されている。 |
【秋季大会】 | |||
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一次リーグ | 対 滋賀師範 | 1-11 | ● |
対 京都二中 | 0-9 | ● |
1917年 (大正6年) 第35回卒 |
第3回 全国中等学校優勝野球大会 京津大会 出場 |
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この年、八幡商業は今までの大会の中で唯一、出場をしていない。 何が原因かは定かではないが、過去出場していないのはこの第3回大会だけである。いつしか第1回大会から連 続出場を表彰されることがあったが、この大会に参加できておらず、受賞することができなかったのは非常に残念で あった。 この年、京都勢に始めて滋賀師範が勝利することになる。 |
1916年 (大正5年) 第34回卒 |
第2回 全国中等学校優勝野球大会 京津大会 出場 |
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第2回大会には滋賀県からは彦根中が1校増え、八幡商業、滋賀師範、比叡山中の4校の出場。京都勢に立ち向かう4校であったが、去年同様、滋賀県勢は惨敗してしまう。八幡商業は2年連続で京都師範に敗れる。 |
【京津大会】 | |||
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一回戦 | 対 京都師範 | 0-12 | ● |
選手 |
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1915年 (大正4年) 第33回卒 |
第1回 全国中等学校優勝野球大会 京津大会 出場 |
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大正4年(1915年)7月1日付の朝日新聞一面に歴史的な社告が出た。「全国中等学校中よりその代表野球団、すなわち各地方を代表せりと野球大会における最優秀校を大阪へ招聘しめんとす」 ここに第1回全国中等学校優勝野球大会開催が宣言される 全国10地区に分かれて予選が行われる。各地方大会は、東京・東北・東海・京津・関西・兵庫・山陰・山陽・四国・九州の10地区からなる。滋賀県勢と京都勢が争う京津大会は滋賀県から八幡商、滋賀師範、坂本中(現比叡山高)が参加した。京都勢からは8校の参加。全国での参加数は73校であった。この第1回京津大会を制したのは、京都二中であった。 入学当時は野球のルールを知っているものはほとんどいなく、マスコミも発達していないだけに情報があまりなかった時代である。当時、新聞に載ったベースボール早分かり説明書には、「一口に言えば野球は18人の人々が9人ずつ敵と味方にわかれ、球(ボール)、打棒(バット)などという道具を使って互いに攻め合う遊戯である」と記されている。 |
【京津大会】 | |||
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一回戦 | 対 京都師範 | 11-23 | ● |
選手 |
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1914年 (明治43年) 第30回卒 |
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選手 | 田中 彦三郎 |
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顧 問 柿 元 清
滋賀県立八幡商業高等学校野球部OB会創立50周年、おめでとうございます。
今から50年前の昭和40年に沢村啓二監督、三露晋部長、そして顧問の私とで、現役野球部の財政難の問題について連日頭を痛めておりました。昭和37年の選抜大会に出場してから3年が経過していて、甲子園出場時の寄付金も既に底をつき試合用のユニホームは勿論、練習用のバット、ボール、グラブなど用具不足をきたしていて十分な練習ができませんでした。
そこで、野球部OB会の皆さんに少しでも援助して頂ければ有難いなあ…と相談し、「OB会を結成しようや!」と話がまとまり、監督は現役の練習に集中する、部長は名簿作り、私はOBの皆さんに協力を求める渉外係と役割分担し、速攻作業を開始しました。木下清二氏(第45回卒)、竹山多四郎氏(第46回卒)、中村定則氏(第47回卒)、寺本嘉男氏(第55回卒)、森本泰弘氏(第66回卒)らが、先ず八幡在住の先輩方に話しかけ「応援するよ!」との言葉を頂き、組織作りに入りました。初代の会長には、部長の実家の隣家出身の木下清二氏にお願いしました。こうしてOB会はスタートしたのです。一番苦労されたのは、名簿作り担当の三露部長でした。
当時私が36歳、監督が30歳、部長が28歳と若かったため、ガムシャラに組織作りに邁進できたのだと思います。
その後、二代目若原正蔵会長(第49回卒)、三代目森本泰弘会長(第66回卒)、四代目柴田雄会長(第78回卒)と、歴代の会長の元、活発なOB会活動を展開され幾多のOBの皆さんが足繁くグラウンドに足を運ばれ現役選手を指導頂き、又経済的な援助を頂いた事に現場として大いなる喜びを感じました。
25年前より始まった膳所高等高校とのOB定期戦も忘れる事ができないOB会の栄えある1ページです。そして、遂に創立後23年目に林監督を迎えてから平成の初めより今日まで、甲子園出場の実績を積み重ね、県下での名声は勿論、全国にも「八幡商業」の名を馳せるに至りました。熱烈な母校愛に育まれたOB会は、県下一の組織となり、現役選手を強力に支え続けて来られた事に創立に拘わった者として衷心より感謝申し上げ、OB会の益々のご発展を祈念し、皆さんに熱きエールをお送りしてお祝いを申し上げます。
滋賀県立膳所高等学校野球部OB会
顧 問 今 市 信 夫
滋賀県立八幡商業高等学校野球部OB会の皆様、創立50周年おめでとうございます。心より祝意を申し上げます。
戦前、戦後を通じて滋賀県下での高校野球を推進して来た八幡商業高等学校と膳所高等学校は、良きライバルとして凌ぎを削って参りました。八幡商業高等学校野球部の歴史は119年を迎え、数々の実績を積み重ねられ全国にもその名はとどろき渡り、今も県下高校球界を牽引され続け、その間幾多の名選手を輩出されてこられた貴校に深甚なる敬意を表します。
平成3年に八幡商対膳所高のOB定期戦が開催され、昨年で25年24回目を迎えた処で終了となりました。当時の両校諸先輩のご努力で、県下で初めてのOB定期戦は、他校の垂涎の的となり、両校OB諸氏の一年に一度の交流はその目的の一つでもある親睦も密になっていたにも拘わらず終了となった事は慚愧に堪えません。OB定期戦は、現役諸君にも少なからず好影響を与え母校愛にも繋がり活性化の一助になっていた事を誇りに思う処で有ります。
平成14年に始まった滋賀県高等学校野球部OBシニア大会も昨年で第14回を数えました。
創設時より八幡商OB会と膳所高OB会が力を併せ、今日に至るまでの成長を続けられた事に感謝を申し上げます。親善試合での優勝争いでは、昨年までに八幡商が三連覇を成し遂げられたのは、普段のOB会活動が盛んに実施されているものと拝察致しております。
これからの貴校のOB会活動が益々隆盛となる事は勿論の事、現役野球部の甲子園での大活躍を期待し、お祝いの言葉と致します。
現監督 池川 準人(110回卒)
この度は、八幡商業高等学校野球部OB会の設立50周年、誠におめでとうございます。心よりお祝い申し上げます。また、平素は我々現役野球部のために、物心両面から過分なる援助を賜り、部の活動並びに運営を支えて頂いていることを部員・指導スタッフを代表し、あらためて御礼申し上げます。
さて、学校におきましても、平成28年度に学校創立130周年を迎えます。このような二重の節目の年に、OBの一人として、伝統ある八幡商業高等学校野球部の監督を務めさせて頂いていることを本当に有り難く感じております。
私自身を振り返れば、平成7年に滋賀県の教員に採用され、四年後に夢であった母校赴任が決まった喜びは17年たった今でも忘れられません。恩師の林勝先生のもと、三年間野球部長として指導哲学を一番近くで学ばせて頂き、定年退職されるまでの間に、戦略から人脈まで林先生が築かれた全てを引き継がさせて頂きました。この財産が私にとりまして、監督として選手を指導してい
く上での基盤となっております。また、母校赴任時より諸先輩方から心のこもったお言葉をかけて頂き、時には叱咤激励と後輩の私を親身になって応援頂いたことも、大きな心の支えとなりました。
本当にありがとうございます。
近年は、滋賀県の高校野球も多少はレベルアップし、近畿大会や甲子園大会で上位進出できるチームが出て参りました。ただ、滋賀県として悲願である全国優勝を果たすためには、まだまだ力をつける必要があります。各チームがそれぞれ戦力アップをはかり、高いレベルをもって県内で切磋琢磨することが、全国優勝への近道だと考えております。そのためにも我ら八商が「投・走・攻・守」全てにたくましいチームとなり、県内のチームをリードしていく存在になる必要があると思っております。
これからも、選手とともに悲願達成のため一心不乱に練習に打ち込む所存です。今後ともOB会からの全面的なバックアップを切にお願い申し上げます。また、ご足労をお願いしますがグランドに
足を運んで頂き、現役の選手達を激励して頂ければ幸いに存じます。
最後になりましたが、この記念部史を作成するにあたりまして、竹島実行委員長はじめ、実行委員および各学年の担当者の方には編集作業に膨大な時間を割いて頂いたと推察致します。本当にありがとうございました。先輩達が築かれたこの良き伝統を守りながら、人から人へ八商野球を伝えていき、10年、20年、50年先の未来には「八幡商業高等学校野球部」の新しい歴史のページが書き加えられていることを祈念し、御礼の挨拶にかえさせて頂きます。
前監督 林 勝
この度は八幡商業高等学校野球部OB会の創設50周年を迎えられ、誠におめでとうございます。
半世紀の長きに亘る活動は、関係者の並々ならぬご努力があってこそ、続けられたのではないでしょうか。OB会の支援を受けた野球部も校訓に掲げられた、進取気鋭、自主自律、独立自尊を旨とした活動を続け、今日の栄えある伝統を築くことができました。これは歴代監督とOB会が人間性重視の指導を支援し続けてきた賜だと思います。
近江商人発祥の地に立地する八幡商業高等学校は、明治19年創立以降、有為な経済人を数多く輩出し、世界的に知られる企業の創業者となられた方もおられます。私は、その伝統校に昭和62年4月赴任いたしました。当時の完甘校長から野球部の監督を申し付けられ、責任の重大さをひしひしと感じながらお受けしたことを今も鮮明に覚えております。
微力な私ですが、15年に亘り監督をさせていただき、その間に春夏秋の県大会で通算15回優勝、戦後初の夏の甲子園大会4年連続出場、さらに春夏を通じ7回も甲子園出場ができましたのは、諸先輩が築かれた伝統、整えられた野球環境、学校全体の野球愛、OB会のご支援があったからです。そして、私の指導について来てくれた数多くの選手諸君、及びマネージャーに心から感謝いたしております。
他校を含め、41年も高校野球の監督をつとめさせていただきましたが、八幡商業高等学校時代の思い出はひとしおです。大変お世話になり、本当にありがとうございました。
今後も、生命の続く限りグラウンドや球場に足を運び、八幡商業高等学校硬式野球部を応援させていただく所存です。
最後になりましたが、OB会の更なるご発展をご祈念し、お祝いの言葉とさせていただきます。